吹田くわいの生態
オモダカ※という植物が進化して出来た植物です。一般に「くわい」として市場に多く出回っている白くわいと青くわいは中国が原産地ですが、肥沃な 日本の自然環境で進化して出来たくわいが「吹田くわい」です。吹田くわいは、初夏に白く可憐な花を咲かせることから、食用にするだけではなく、鑑賞用としても楽しめる植物です。
地下茎は根から何本も別れて地下に伸び、秋になると先がふくらんで実になる部分を「塊茎(かいけい)」と言います。この先に角のような芽がつきます。 このことから「お芽出たい野菜」として、昔からおせち料理にも使われていました。一般のくわいに比べると吹田くわいは、味がほっくりとして濃く、 独特のほろ苦さの中にうまみがあり、「1度食べたら忘れられない味わいがある。」と言われるほどです。
この貴重な野菜も、一時は絶滅寸前の「幻の野菜」といわれるまでになったのが、昭和30年代でした。元々お米のような栽培植物ではなく、田圃の雑草としてお米の収穫後の副産物として採集されていたため、 吹田市内の水田の急速な宅地開発化と除草剤の多用化に伴い、次第に姿を消していったのです。
しかし、昭和60年(1985年)からはじめられた「吹田くわい保存会」の20年以上の努力によって育成、栽培、啓蒙、研究、交流無料配布によって保存がはかられてきました。 大阪府の「なにわの伝統野菜」で現在17種類認証を受けた1つに「吹田くわい」も加えられています。
歴史のある食べ物

文化8年(1812年)には摂津美也計毛濃に宮前大根、本庄茄子と共に吹田くわいが描かれています。
≪「五畿内産物図会」第1巻挿絵(大阪春秋第111号おおさかの伝統野菜より)≫
江戸時代には、吹田が京都の仙洞御所の御料地になり、天皇をはじめ皇族方にも召し上がって頂けるように、4つの禁裏(本御所・仙洞御所、女御御所、大宮御所)に献上されました。 その際、菊の御紋のついた竹製の大名駕籠を模した献上駕籠に乗せ、庄屋・年寄り・大百姓らがつき従い、高禄の大名行列も道を譲ったそうです。 天和3年(1683年)から明治維新まで、200年近く献上が続いたのは、その味が最高に素晴らしいものであった証拠ともいえます。(明治天皇、大正天皇にも奉祝のために献納されたという記録が残っています。)
また、明治以後の近代になってからは、日本の植物分類学の大家である牧野富太郎博士によって、吹田くわいの学名が名づけられ、 昔中国から輸入された一般のくわいの1品種ではなく「オモダカ」が日本の肥沃な土地で成長進化したもので、吹田原産であることを明確にされました。
昭和40年には、当時京都大学教授の阪本寧男氏が、吹田くわいは元々栽培されたものではなく、野生と栽培の中間の、 世界でも数種しか発見されていない「半栽培植物」として伝わって来た歴史を持つ大変貴重な植物であることを提唱され、遺伝学研究上、世界的な注目を浴びました。
このように、吹田くわいは、「歴史と文化」があり、「学問的な裏づけ」があり、清浄な水質でしか生きられないという「環境を考えさせる郷土の宝物」と言えるのです。

再現された献上駕籠

吹田まつりで再現された献上行列の様子
≪吹田くわい保存会ご提供資料より作成写真ご提供:
吹田くわい保存会関西大学人間活動理論研究センター(CHAT)≫
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★CHAT(Center for Human Activity Theory)は、文部科学省「学術フロンティア推進事業」として、2005年度~2009年度、共同研究プロジェクト「革新的学習と教育システム開発の国際共同研究─人間活動理論の創成─」を推進する、国際的な研究拠点です。
※オモダカ(沢瀉、面高)とは
アジアの熱帯域から温帯域及び東欧にかけて広く分布しており、日本には洪積世 (約180万年前~1万年前)よりも以前から分布していたと考えられています。オモダカは、日本最古の鎧で国宝でもある沢瀉威鎧にもその名が使われ、毛利元就が 家紋にしたこともあり、別名「勝ち草」とも呼ばれています。オモダカの独特の葉の 形は、遠くから見ると弓矢や旗を持った侍が大挙しているように見えたことから、武家の家紋として好まれ、沢瀉紋は日本十大紋の1つとして40種類以上あります。 英語表記のアローヘッド Arrowheadは、このオモダカの葉が矢の形をしていることが 由来です。(オモダカの表記の1つ「面高」は、脊の高い茎の上にある人の面のような葉が、水稲の上から出ていることが語源と言われています)